top of page
ピカソに称された我妻
山田先生と我妻正史

日本のピカソと称された我妻さんの魅力

ピカソは91歳で亡くなる数日前まで作品を作り続け、「描くたびに下手になる」と嘆きながらも、絵筆を捨てることなく創作に挑戦し続けました。「ピカソは絵を描くことで死神と戦っていた」と語る美術評論家もいます。我妻さんもまた、ピカソの精神に近い存在かもしれません。彼はじっとしていられず、機関銃のように話し続け、次々と作品を生み出しています。現在、2冊目の画集の制作にも取り組んでおり、一時は重い病気にかかりましたが、気力で完全に復帰されています。

ピカソは反戦への強い意志を持ち、「ゲルニカ」を描いてナチスと戦いました。我妻さんもまた、小学生の頃、アメリカ軍による仙台大空襲を経験し、戦争への反発や無常感を抱いたと言います。ピカソとの違いを挙げるならば、我妻さんは若くして妻を亡くし、それ以降は独身を貫いたことでしょう。彼のマンションには、亡き妻を祈るための部屋があり、その部屋には常日頃は誰も立ち入らないそうです。これではピカソのように次々と妻を変えることはできません。

我妻さんは高校時代から絵が好きで、自宅が写真館だったこともあり、最初は風景画に興味を抱いていました。高校時代にはすでに県展で大賞を受賞しています。その風景画は、現在のような鋭い社会批判は見られませんが、確かに流れのある構図と美しい色使いが特徴でした。数十年後、我妻さんの絵が変わったのは、これまで保守的な環境で抑えられて生きてきた自己に対する矛盾を感じたからでしょうか。今では、誰もが美しいと感じる田園風景には魅力を感じなくなり、むしろ崩れかけた建物に心が惹かれるようです。

我妻さんの作品によく登場する廃墟となった建物群は、昔の東南アジアの街を思わせますが、実際はメキシコが舞台です。メキシコで名古屋の水彩連盟の展示会があり、我妻さんはそこで付託のないメキシコ人からも賞を受賞しましたが、このことが名古屋の重鎮たちからいじめを受ける原因となりました。名古屋では年功序列と付度が重んじられる街なのです。

私自身も関西方面の美術コンクールで何度も大賞を受賞しましたが、名古屋の画家たちには「山田君は関西にコネがあるのだね」と言われることがあります。彼らは、賞というものは人間関係で得るものだと考えているのでしょう。

我妻さんが2001年に私のシルク版画の教室に入られてからの活躍には驚かされます。シルク版画が彼の思考に合ったのでしょう。京展や高知国際トリエンナーレといった大きなコンクールにも常時入選し始め、国展でも最高賞を受賞し、会員となりました。だが、年功序列で会員になった先輩作家に本音で迫る我妻さんには、周囲の人々も我慢がならないようです。しかし、実力が物を言うべき芸術の世界では、我妻さんの態度は当然のことです。

2006年制作の「予言1」は、伝説の評論家・針生一郎さんが絶賛した作品です。廃墟のイメージが針生さんを惹きつけたのでしょうか。このイメージは、2011年の東日本大震災を予言しているかのようです。宮城県出身の我妻さんは、この災害を予見していたかもしれません。

ピカソに負けず、我妻さんには第3、第4の画集を出すまで頑張っていただきたいものです。

山田彊一

国画会絵画部会員 大島幸夫氏によるお言葉

国画会絵画部会員 大島幸夫氏

私が我妻さんの作品と出会ったのは、20年前の第39回中部国展(絵画部)での「街」シリーズでした。初出品で新人賞を受賞したそのグレートーンの半具象作品は、しっかりとしたマチエールが印象的で、私は若い作家の作品かと思ったのですが、実際には私より年長の方であることに驚きました。今でも我妻さんの制作に対する感性は衰えを知らず、驚かされるばかりです。

今回、我妻さんの作家としての歩みを拝見し、あの作品が出来上がるまでの熱意や背景が少し見えてきたように感じます。作家としてのスタートは遅かったものの、メキシコや世界各国を旅する中で、日常生活の中で受けた感動が創作の一つのきっかけとなったのですね。その後、東北の大震災、故郷の災害を目の当たりにし、新たなシリーズが始まりました。

私も、震災後に「風景の会」で「東北を描く」というテーマが提示されましたが、具体的な情景を描くことができず、環境への祈りをテーマにしたことを記憶しています。

我妻さんの国画会絵画部での発表は10年足らずですが、絵画作品と出会う機会に恵まれ、その後、版画作品でどんどん進化していかれる様子を毎年楽しみに見てきました。抽象と具象の境界を行き来するその表現方法は、写真、版画、水彩、絵画と多岐にわたりますが、それらの表現には一貫したつながりが感じられます。観賞する側としては、表現手法の違いに応じて感受性を少しずつ調整しながら作品を観ることができ、とても興味深く感じています。

近年の「発塩」シリーズや「あの日の記憶」シリーズに続く作品群は、我妻さんの心の内側からの「思い」がますます力強い表現となり、見る人の心に強く訴えかけているように感じます。特に、「あの日の記憶」シリーズの2019年の作品には、黒い太線が現れ、動きが生まれました。また、2021年の作品では線が消え、静謐な世界にかすかな明かりが差し込むような、新たな展開が見られます。今後の発展が非常に楽しみです。

国画会は、5部門に分かれた公募団体であり、出品される作品も観賞者も非常に多く、幅広い感性が集まる場です。我妻さんには、今後も国画会の会員として、観賞者の心に触れる作品を期待しています。お互いに励まし合いながら、さらに精進していきましょう。

小原喜夫

小原喜夫さんからのお言葉

我妻正史は、群れに属さず、独自の道を歩む孤高の芸術家である。彼の感情の起伏は激しく、それが個性的な作品を生み出す原動力となっている。66歳で名古屋の山田張一氏からシルクスクリーン版画の指導を受け、写真家としての経験を活かしつつ、油絵で培った表現力をさらに深化させた。東北出身の彼は、度重なる災害や9.11事件をテーマに作品を制作し、国画賞を受賞。その作品には、怒りと悲しみが凝縮され、西洋文明とイスラム文明の衝突が象徴的に表現されている。東日本大震災以降、彼はふるさとの災地を歩き、その光景を描き続けている。畏敬の念を抱きながら自然と向き合うその姿勢は、祈りそのものであり、我妻氏の創作活動は、内なる大きな力に突き動かされているように見える。

bottom of page